よく人から、空手って瓦割るの?寸止めなの?極真なの?・・・など、いろいろな事を聞かれるので、今回は空手の歴史や流派の違いについてなど、シリーズにして紹介します。
とりあえず第1弾は、
空手ルーツについてお話します。
現在、無数の流派が存在し、世界中で親しまれる空手だが、正確な意味での「空手」が誕生したのは、昭和に入ってからのことである。
空手誕生以前、すなわち空手の原形である「唐手」や手と呼ばれる武術が、まだ琉球(現在の沖縄)という限定された地域の武術だった時代を語る時、判で押したように語られる逸話がある。
「唐手とは薩摩藩によって武器を取り上げられた琉球の人々が素手で戦うために生み出した、”反抗の武術”である」といものだ。
唐手がこのように言われてきたのは、以下のような理由による。
・素手による格闘技である。
・薩摩藩から隠すために、型稽古中心になった。
・薩摩藩に見つからないように、稽古は隠れて行われた。
しかし、これらは被征服者である琉球民族の反抗を恐れた日本人の勝手な思い込みによるところが大きいようである。では、それぞれの項目について、実際はどうだったのであろうか?

昭和初期の唐手部の稽古風景
・素手による格闘技である。
唐手(空手も含む)が素手のみの武術であるなどというのは、現実を無視した勝手な思い込みと言うほかない。琉球には唐手の両輪としての武器術が存在し、特に棒術は目覚しい発達を遂げた。
・薩摩藩から隠すために、型稽古中心になった。
時々、空手の入門書には、征服者(日本人)に武術の練習であることがバレないように踊りの練習に隠したなどと書かれているが、これには特に確証はない。むしろ唐手の稽古が型を重視したのは、唐手の直接の先祖である中国拳法の稽古法を取り入れたから、と見たほうが自然だ。
・薩摩藩に見つからないように、稽古は隠れて行われた。
これも中国拳法の影響である。隠れて稽古を行なったというよりも、むしろ拝師(内弟子入門)した者以外には教えなかった。というのが実情に近いだろう。つまり、誰もが唐手修行をできたわけではなく、例外を除けば、基本的に富裕な階級の者しか学ぶことができなかったようなのである。
唐手は伝承された地域、技術のスタイルから大きく分けて、『首里手』『那覇手』『泊手』の3つに分類された。首手は琉球の首都であり、武士階級に普及した。また、那覇、泊はそれぞれ貿易港があり、多くの中国人が出入りしたため、武術の伝承が盛んに行われたという。
ちなみにこの3種の分類は伝承地域、技術系統の分類であり、流派ではない、空手に流派が登場するのは、もっと後年になってからである。
琉球唐手の分類
首里手(しゅりて)
首里手は棒術と拳法の名人・松村宗混(まつむら・そうこん)などを生み出した系統であり、中国北派拳術の影響を濃く受けていると言われている。松村宗混は薩摩の示現流も学び、「空手の巻藁突きは、薩摩示現流の”立ち木打ち”をヒントに、松村が始めた」とも伝えられる。この松村宗混をはじめ、首里手からは後に
船腰義珍(ふなこし・ぎちん/松濤館流創始者)、わが道場の日本空手協会を創った人です。さらにその弟子に
大塚博紀(和道流創始者)が出たため、後の四大流派のうちの二流派が、この首里手から発生したということになる。
那覇手(なはて)
那覇には福州からの帰化人が多く、また、那覇の港は貿易港として栄えており、多くの中国人が行き来していたため、武術の交流も盛んに行われていたようである。那覇手は中国南派拳法の影響を強く受けて発展した。
宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん)が所有し、剛柔流に強く影響した「武備誌」はまさに南派拳法の教本であり、その強い関係を表している。那覇手からは上地流や劉衛流などが出たが、中でも最大派閥として発展したのは、宮城長順によって創始された剛柔流である。
泊手(とまりて)
一説によると、山東省からの漂着民が伝えたと言われているが、確証はなく、首里手や那覇手に比べると歴史背景はかなりあいまいである。技術的には「チャタンヤラのクーシャンクー」などの型を残しているが、代表的な名人である松茂良興作でさえ、首里手と並行して学んでいたりと、泊手のみの伝承者は少なく、事実、本土空手が広まった時に純粋な泊手が広まることはなかった。
まだ、不明な点がたくさんありますが、以上が唐手「空手」のルーツのようです。
次回は、空手の歴史② 『沖縄唐手から本土の唐手』編をご紹介したいともいます。 お楽しみに!!