空手の歴史③
『近代空手の成熟・競技空手の発展』
武術性を失った空手と、極真の台頭
全空連の設立と共に、空手は一気に市民権を得ていくこととなる。インターハイの開催を皮切りに、1978年からは国体のデモンストレーション競技に、1981年からは正式種目として採用され、空手競技は国民スポーツとして認められるようになった。
また組手と共に、空手の伝統的な稽古法である「型」の試合も行われるようになった。しかし、流派門派によっては名称が同じでも動作に差異があることが多い。そのため、これを統一して判定基準を明確にしたのが「指定型」である。この「指定型」の登場で、多くの選手に試合で勝つチャンスが増え、競技人口を増やす助けとなった。
とはいえ一方では、型の実践の妙味が崩れることを嫌い、全空連から離れていく門派もあり、また組手の部においても、寸止めルールに不満を抱く門派が徐々に現れてきた。なかでも、最も過激なまでに全空連を批判し、自流の思想を実行したのが、大山倍達率いる極真会である。
極真会は剛柔流の流れを組むが、その組手ルールは「掴み」、「引っ掛け技」が禁じられていたため、剛柔会の血を感じることはなかった。基本的には掴み禁止(後に絶対禁止)、「顔面への手技を禁じた以外は素手・素面でどこにでも直接打撃を行なってよい」という、当時としては非常に過激なルールで行われた。この極真の試合は漫画・映画の題材ともなり、また格闘技色が強かったため、空手の大会としては初めて、興行としても成功。空手の枠をこえて、格闘技界を代表するほどの存在となった。
フルコンの歴史はルール開放の歴史
確固たる地位を築いた極真会は、ムエタイとの闘い、プロレス団体との抗争など、話題に事欠かなったが、次第に極真ルールに不満を唱える団体も登場してくる。「実践とは何か?」を追求する団体が出てくるにしたがって、顔面パンチがない、掴みがないなどの極真空手の規制を、実践的ではないと解釈する者も増えてきた。
その後、フルコンタクト空手は「過激なルールにすればするほど、興行的にも成功する」ということで、一時はプロレスとの境界線すらわからない団体も出てきたが、現在はおおまかに大別すれば、以下のような具合に落ち着いているようだ。
・アマチュア向けの顔面あり(グローブ着用)技術を追求→
新空手
・キックボクシングとの併用によって実践性を追求→
士道館
・ポイント制を導入して直接打撃の中での伝統技術を追求→
拳道会・佐藤塾
・防具付きKO制で禁じ手を極力廃止し、総合格闘技を追求→
大道塾
・自流独自の技術を追求→
芦原空手・無門会
・プロ格闘技を追求→
Kー1(正道会館)
・直接打撃試合を採用した古流→
沖縄剛柔流・上地流
以上が、現在の空手団体になっている。
空手の歴史①~③をご紹介しましたが、空手のルーツ解りましたか
以上をもちまして、空手の歴史シリーズを完結します。
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